物質界と想像界 / “現実” という認識を巡って / 九条昴問答③
前回からの続きです。
茹だる熱帯夜。上空300m。当時建築中であったエンパイアステートビルディングの頂上付近。
大きく中空に張り出したその剥き出しの鉄骨の突端で、昴さんと僕との哲学的問答は尚も続いていました。
ーー君は、人に恋焦がれた事があるのか、と尋ねたね。あるならば、分かるはずなんだよ。それこそが、入り口なのだから。
入り口…? 入り口というのは…
ーー黄泉比良坂の入り口さ。
黄泉比良坂とはつまり、具体的な傾斜面の事ではなく、彼の世と此の世を繋ぐ、一種の経路である、と、昴さんはそう仰っていました。
坂道 ⇄ さかみち ⇄ 境径 …文字通り、あの世とこの世の境目であり、二つの世界の境界が曖昧になる場所…
境目の径(みち)…
ーーそう、境目、境界。しかしね、これこそが重要なんだが… 彼の世とはなにも、死後の世界、というだけの意味ではないんだ。
死後の世界、ではない…?
ーーある人にとっては同じかもしれない。つまりはこの世界… “現実” であると目されている、我々が認識するこの物質世界とは別に、形而上の次元、言うなれば、『想像界』とでも言うべきものが、同時に存在しているんだよ。
想像界…? 昴さんのお話は、いよいよ奇異な方向へと向かい始めました。その時は、そのように思いました。
それはつまり、精神世界、のような物の事ですか?
ーーそういう事でもある。夢の世界と言っても良い。だが、それもまた現実なんだ。例えば、今僕たちはこうして鉄骨の上に立っているだろう? 今この場には、鉄骨という物質が存在しているのと同時に、鉄骨という概念もまた存在している。
概念…?
ーーそして僕たちは、その概念がを持つが故に、こうしてこの鉄骨の上に立っていられるんだ。
…すみません… 仰っている事が難しくて…
では、その、例えば、概念を無くすと、この鉄骨は、鉄骨で無くなるのですか?
ーーその通りだ。だが、物質界は非常に緊密でね。鉄骨が、鉄骨であるという体を自ら保てなくなる前に、まずは、君が落ちるだろう。支えを失ったと、自分で思い込む事で。
“落ちる” という言葉を聞いた為か、まるでそれが合図であったかのように、全身から汗が噴き出ました。
動機が激しくなり、ぐらりと平衡が失われ、今にも鉄骨から滑り落ちてしまいそうな感覚が再び襲って来ました。
ーー大丈夫、気のせいだよ。君は絶対に落ちる事はない。
なぜ… なぜそう言えるんですか? だって…
駄目です… 手に汗をかいてきてしまって、今にも滑ってしまいそうで…
ーー僕がいるからだよ。僕がここで、君を死なせる訳がないだろう。
はっと顔を上げると、昴さんはただ、こちらを見つめていました。
静かに、穏やかに、ただ何かを確信しているかのような、そんな瞳でした。
ーー君も、僕も、今ここで落ちるような運命には無いんだよ。例えば、君は今僕から聞いた話を、いつか誰かに伝える事になるだろう。少なくともそれが起こるまで、君の運命が終わる事はない。
運命… ですが、未来はどうなるか分からないじゃないですか。
ーーもちろんさ。人の考えは変わるからね。精神の在り方が変われば、“過去同様” に、未来もまた変化するのさ。ひとまず、今のところはそうだ、という事だよ。
過去も変わる…? 一体それは…
ーー意味付けが変わるという事さ。その精神にとっての出来事の意味が変われば、概念が変わり、その性質も変化する…
性質が、過去が、変化する…?
ーーつまりはね、起きた出来事、これから起こる出来事というものは、全ては君という精神が自ら作り上げた思い込みによるものなんだよ。たとえ意識の上ではどれだけ理不尽に思えるような事であってもね。無意識の力とは、それだけ強力なんだ。だから例えば、ここで不意に足を滑らせて落ちるのが自分には似合いだと思うのならば、君はここで落ちるだろう。だが…
昴さんは少しだけ微笑み…
ーー僕はそうは “思わない”。似合わないよ、君には。だから、君がここで落ちる事はない。
…昴さんがそう仰ると、不思議と、少しだけ気持ちが落ち着いて来ました。身体の緊張がほぐれ、足元がぐらつくような感覚が、遠ざかって行くようでした。
では、想像界は、現実を形作る要素の一部だと…?
ーーそうではない。現実、と認識しているこの物質世界こそが、想像界の一部なんだ。現実的な物質は全て、ある概念の象徴なんだよ。
象徴…? けれど、想像、というのは、人それぞれで別々のものでしょう? 精神世界というのも、ひとりずつ別々のものなんですから…
ーーもちろんそうだ。建物の中がそれぞれ区切られた物理空間であるのと同じように。だが、屋外はどうだ。誰でもいられるだろう?
屋外…? なんだか、まるでひとつの世界みたいな仰り方ですけど…
ーー実際、そうなんだよ。近頃は集合的無意識等と名前を付けて、それらしい取っ掛かりを見つけようとはしているようだが…
殆ど無表情のような微笑みの中に微かに苦笑の色を滲ませ、昴さんは足元に広がる紐育の夜景に目を落としました。
ーー殆どの人間は物質世界のことしか認識してはいない。そちらだけが現実だと考え慣れているから。…たとえ傍らで黄金の鐘が鳴り、天使が舞おうともね。
その時、ふと不思議に甘い香りがして来ました。しかし、馴染みのある香りでもありました。それは昴さんのお近くに寄った際、時折薫ってくる香りでした。
見れば、昴さんの周りに、桜色の光の瞬きが、無数の煌めきが踊っていました。
ーー神話、宗教、詩、童話、あるいは君がよく読んでいるパルプ雑誌や、僕らが演ずる舞台上の人物まで。世に存在する数多のフィクションには、繰り返し登場するモチーフや、ある共通する要素がある。全く交流などなかったはずの、違う文化、違う時代のものであっても、そこには、神話的元型とでもいうべきものが存在しているんだ。
桜色の煌めきはますますその数を増していきます。同時に、あの独特の甘い香りも強くなり…
ーー人は毎晩夢を見る。だがそれは、想像界のほんの入り口に、帰っているだけなんだよ。
香りのせいか、意識が朦朧として来ているのを感じました。
このままでは、足を滑らせて、落ちてしまう。
そう思った刹那…
僕と昴さんは、一面の桜吹雪の中に、佇んでいました。
《続く》