異界への旅路 / シン・スバルモンドウ:最終審判:シンの道は破壊の道 / 九条昴問答④
前回からの続きです。
茹だる熱帯夜。上空300m。当時建築中であったエンパイアステートビルディングの頂上付近。
大きく中空に張り出したその剥き出しの鉄骨の突端で、昴さんと僕との哲学的問答は続いている… はずでした。
そのはずが…
不思議な甘い香りと共に昴さんの周りに桜色の煌めきが舞い始めたと思った刹那、気付けば何故か僕と昴さんは、一面の夜桜と、その桜吹雪の中に、佇んでいました。
確かにほんの一瞬前まで、鉄骨から滑り落ちそうになっていたはずなのに、一体ここは…
ーー安心して欲しい。ここはまだ、入り口ですらない。言わば、最初の門を潜っただけだ。毎晩寝て、夢を見るのと大差はない。
入り口…? 最初の門? でも、その… 門とは、つまり、想像界の?
ーーそうだ。人は何かを想像する時、必ずここにアクセスしている。しかし、どこまで遠く深く潜れるかは、その人物次第だ。詩人も、画家も、哲学者も、数学者も、科学者も、あらゆる領域の開拓者達は無意識に、もれなくこの道を通っている。
無意識に…? ですが、みんながこんな景色を見ているとは、僕には信じられません。
ーー見ているものはみんな違うさ。今我々が見ている景色とて、ある象徴でしかない。ほら、足を踏みしめてみると良い。明確に地面があるかい?
…ありません。あれ? でも今は地面が見える。上野公園みたいだ。上野公園の夜桜だ。
ーーなるほど、上野か。夜桜だと思った訳だ。
昴さんはそう言うと、少しだけ可笑しそうにクスリと笑いました。そして、僕の方に一歩近づき、こちらに向けてそっと掌を開かれました。昴さんの掌の上には先程の桜色の煌めきが… いえ、見ようによってはそれは濃い桃色にも、あるいは血の色にさえも見えましたが… ともかく、何かの結晶を砕いたかのような粉末があり…
ーー『砒霜(ひそう)』という。人の意識、あるいは魂を、黄泉の国より呼び戻す… いや、想像界から呼び出す際に使うものだ。要は異界へのアクセスに使うもので、今はこれを振り撒いた事によって、僕たちの間で念が共有されるようになった。だから二人で同じものが見えているんだよ。
後に知ったところによると、それこそは『反魂の術』に使われる秘薬でした。なぜ昴さんがそのようなものをお使いになっていらっしゃるのか、それは分かりませんでしたが… 恐らくはお家の使命と、何がしか関係があったのだと思います。
それにしても気になるのは砒霜(ひそう)というその名前で… まさかそれは…
ーーああ。ヒ素の一種だ。死の霊薬だと言っただろう?
昴さんはさらりとそう仰ると愉快そうに笑っていましたが、僕は慌てふためく事になりました。
ーー大丈夫、これは無害だ。あまり吸い込まなければね。
意地の悪い冗談を重ねる昴さんに閉口していると、目の前にピンク色の物体が漂って来ました。ふわふわと浮かんでいます。
ーーほら、ピンクエレファントだよ。リカのステージのマスコットだね。
確かにそれはピンクエレファントでした。大きな耳を翼にしているつもりなのか、パタパタと耳をはためかせながら飛んでいます。
ーーこんな単純なキャラクターにも無論、想像の力が使われている。ほら、サーカスの看板が出て来た。なるほど、派手な色彩はこの看板の印象だったか。ああ、例のしあわせウサギもいる。最近流行りのカートゥーンのイメージもあるようだね。まさしくリカの記憶と想像の産物という訳だ。
そうしてピンクエレファントをやり過ごすと、次には巨大なジャンポールの一群が現れ、さらには赤鮫やらケーキやら饅頭やら流木やら、妙な被り物の一群までもが現れましたが、それらのすべてを後ろにしながら前に進むと、あるところで急に景色が一変しました。
僕と昴さんは、いつの間にか、よくあるアメリカの幹線道路を歩いていました。
ーーここだよ。ここが入り口だ。物質から、精神への…
これが、想像界への入り口… ですか? 普通の道路みたいですけど…
ーー言っただろう、全ては象徴だよ。重要なのは道の見た目ではなく、番号の方だ。見たまえ。
昴さんが指し示す方を見遣ると、道路標識がありました。
『ROUTE 32』…?
ーーそう、32号線だ。最も重要な径(みち)だよ。ただ… 他にも選択肢はある。ここは三叉路だからね。
視線を下げると、道路はいつの間にか三叉路に変化していました。
先程の中央の道路は『ROUTE 32(32号線)』でしたが、左の道路は『ROUTE 31(31号線)』、右の道路には『ROUTE 29(29号線)』の標識がありました。
ーーこの分かれ道が問題なんだ。どのルートを辿っても光明へと至る事は出来るが、途中の様子は全く違うからね。あ、そっちは…
左の道路の先を何となく見つめていた僕に、その道は危ないからやめておいた方がいい、と、昴さんが注意を促しました。
よく見ると、左の道の先には恐ろしい光景が広がっていました。降臨した天使が終末のラッパを吹き鳴らし、世界を焼き尽くす焔が燃え上がり、天地を揺るがす災害が起き、人の世の尽くが破壊されていました。
ーーそれは『シン』の径(みち)だ。10のセフィラと22の径を合わせた32の数字の中では31番目、タロットでは《審判》、ヘブライ語の『シン』に対応する。
ヘブライ語… では、日本語ではないんですね。新しいの「新」や、真打の「真」とは無関係…
ーーいや、偶然の符号というものはある。音は共通しているし、少なくともメタファーにはなるかもしれない。そして、メタファーを軽視してはいけないよ。同音異義語はもちろん、文字の入れ替えでさえも意味を隠し持つ事があるのだからね。例えば “アナグラム(ANAGRAMS)” とはメタファーそのものだし、それだけで “偉大なる芸術(ARS MAGNA)” なのだから。いずれにせよ…
昴さんはシンの道を、その破壊の様子を眺めながら仰っていました。
ーーあれは知性を目指す事によって光に通じる道で、知性に自信があるのならば通ると良い。神話的元型との繋がりの回復と、新たな創造性へのこれ以上ない入り口となるだろう。だが、結局そこに至るには、黙示的な、世界を破壊する啓示を経なくてはならない。災害、疫病、死、精神の終焉が吹き荒れるが、知性が足りなければただ破壊がもたらされるのみだ。
世界の破壊… 確かに、あまり楽しそうな道ではありませんでした。
ーーあるいは精神の修行を経ずとも楽に辿れる、安易な道であるとも言える。すべてが破壊されてしまえば、人間の精神は変容せざるを得ないからね。
昴さんは僅かに眉根を潜めて、道の先を見つめていらっしゃいました。
ーーだから要は、僕たちには最も向かない道だよ。本来 “黙示” とは善きものだが、知恵と心構えが伴わなねば意味がない。だから、演目の内容ならともかく、世界を作り替えてしまうほどの破壊は、今のところは指向するべきではない。リトルリップシアター… それに、帝都や巴里もそうだが、我々華撃団は想像と慈しみの力で世界を守って来たのだし、むしろ、世界の破壊を… 人の精神のカタストロフを、防ぐ必要がある。そしてそれが既に起きてしまっているのなら、その精神を癒さなければならないんだからね。
そして昴さんは右側の道を示しました。
ーー対して、右側が『クォフ』の径(みち)だ。10のセフィラと22の径を合わせた32の数字の中では29番目、タロットでは《月》、ヘブライ語の『クォフ』に対応する。…実は、僕がいつも使っているのは、この道なんだ。
道の先は暗く、夜の領域になっていました。大きな満月が浮かんでおり、数多の絞首台が設置されていました。
ーーこちらは無意識と感情に近い径で、魂の暗く長い夜を表している。…普通はあまり、こちらにも行きたくはないだろうな…
昴さんはまたしても少し苦いご表情をされていました。
ーー行った先のセフィラも、僕にとってはあまり愉快なものではないからね。感情の海の中で全身を翻弄され、溺れそうになるなんて事は… だが… 僕はこの道しか知らないんだ。
では、真ん中の道は? 僕は残る中央の道の事を、昴さんに尋ねました。
ーーそう、今回は君がいるからね。ある意味では一番正道とも言える、真ん中の径を行ってみたいんだ。…だが、この径を行くには、条件があってね。それこそが、君に質問した件なんだけれど…
…あまりに目まぐるしい体験をしているせいか、昴さんが何の話をしているのか、すぐには察する事が出来ませんでした。
ーー君は人に恋焦がれたことがあるかい? と、聞いただろう。それこそが、中央の径を通る資格があるかどうかの、重要なポイントなんだ。
言われてようやく、あの質問の事だと言う事が分かり、改めて赤面する羽目に陥りました。あまりに唐突なあの問いかけは、昴さん一流の謎かけか何かかと思っていたのに、よもやこんな事になろうとは…
ーー中央の径が行く先は『月』のセフィラ、夜の夢の領域だからね。…ちなみに右側の径に浮かんでいる月とは別物だ。あちらは無意識と精神的女性性の象徴としての満月だが、こちらは『月』と名付けられた惑星の力そのものだ。想像界の入り口、つまりは『基礎』だからね。
すみません、ところで、行く先というのは…?
ーーそうだった、すまない。僕とした事が…。まずは地図を見る必要があるね。闇雲に先を目指しても仕方がない。…どうやら、自分でも思っていた以上に、君と一緒にこの三叉路に立っているという事に興奮しているようだ。
昴さんらしからぬ… あるいはらしい物言いとも言えましたが、つまりは僕とのこの旅路を、昴さんご自身も楽しんでくださっているのだ、という事が分かり、少し安心しました。
それにしても、地図など何処にも見当たりません。地図、とは、一体どこに… と、そう言おうとした矢先…
足元に、子供の落書きのようなものがある事に気づきました。
それはまるで、昔遊んだ、けんけん遊びの模様のようでした。
《続く》