ロマンスは想像力の始まり / イェソド(基礎)に想う / 九条昴問答⑦(最終回)
前回からの続きです。
茹だる熱帯夜。上空300m。当時建築中であったエンパイアステートビルディングの頂上付近、大きく中空に張り出したその剥き出しの鉄骨の突端で、昴さんと僕との哲学的問答は続いている…
はずでしたが…
不思議な甘い香りと共に昴さんの周りに桜色の煌めきが舞い始めたと思った刹那、気付けば、僕と昴さんは、曰く『想像界』とでもいうべき、夢の領域へと足を踏み入れていました。
それは霊薬『砒霜』の効果と、昴さんによる霊的導きによるものでした。
我々は、物質世界『マルクト(王国)』から、想像界の入り口『イェソド(基礎)』を目指し、中央の道『タウ』を進みました。
そして今、『イェソド(基礎)』に辿り着いたのです。
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目の前に、月明かりに照らされた大きな川がありました。
何となく、向こう岸の気配を感じるのですが、光に溢れていて、どうにも心地よさ気です。
三途の川だ、という事が、本能的に理解出来ました。
どうやって向こう岸に渡ろうかと思案していると、ふと渡し舟が待っている事に気づきました。黒いケープを纏い、フードを目深に被った船頭らしき人物も乗っています。
昴さんと僕が渡し舟に乗り込むと、咳込みがちな皺がれた声で船頭さんが告げてきました。
ーー向こう岸に行くなら、渡し賃がいるよ。
渡し賃… ポケットを探りますが、財布などは持っていません。昴さんに助けを求めると…
ーーこれでいいかい?
と、昴さんは五芒星の描かれた『貨幣』を取り出しました。君も持っているはずだよ、と言われ、今一度ポケットを探ろうとしましたが、いつの間にか右手に何かを握り締めている事に気付きました。手を開くと、昴さんの物と同様の『貨幣』が載っていました。
では… と、船頭さんに渡そうとするのですが、出来ません。何か、不思議な力に邪魔されるようにして、ただただ脂汗が滲むだけで、どうしても、手の中の『貨幣』を手放せません。
ーー執着よの。そちらさんは往く準備が出来とらんようじゃが?
船頭さんはやや呆れ気味の口調でそう言いました。昴さんは、仕方ない… と何かを手の中で捏ね、すっと二枚の… ピンク色の『貨幣』を、船頭さんに差し出しました。
ーーおいおい、こりゃ贋金じゃないか。こんなモンだけ置いて向こう岸に行った気になっても、得るものはないぞ。
ーー申し訳ない。今回は下見なので、許して欲しい。
ーーなら、もう二枚だ。
昴さんは再び手を捏ね、もう二枚のピンク色の『貨幣』を渡しました。恐らくそれは、砒霜で偽造した偽の “肉体” のようでした。
船頭さんはその『貨幣』を受け取ると、渋々… という調子で船を漕ぎ出し、ようやく船が進み始めました。その時少しだけ船頭さんのフードがずれて顔が見えたのですが、それはやはり昴さんの顔をしていました。
どうして船頭の昴さんは老人のような調子で喋るのかと昴さんに尋ねてみると、曰く象徴的老人だからだろう、との事でした。
ーー言っただろう、全ては象徴だよ。
しばらくすると、ジャスミンのとても良い薫りが香って来ました。すると岸が見えて来て、そこにはなぜか、月光に照らされたリトルリップシアターが建っていました。
僕たちは船を降り、シアターの中へと入っていきました。
ホワイエは多くの人々で賑わっていました。皆肉体を持っていないようで、少し曖昧な輪郭でしたが、皆陽気に過ごしています。ジュークボックスからはアネット・ハンショウ版『Get Out And Get Under The Moon』が流れており、とてもリラックスしたムードでした。
最早驚くべき事ではありませんでしたが、そこには織田信長や彼の小姓森蘭丸ら、既に世を去った人物の姿もありました。あるいはシャーロック・ホームズやホラ吹き男爵氏、そして少年レッド等、有名な架空の人物や、架空の部分が入り交じった人々が一緒に談笑しています。
成る程確かに、ここは死後の世界にして、想像と夢の世界である模様でした。
「アラジンと魔法のランプ」のアラジンもいましたが、彼らに至っては三人が存在しています。米国人風の…恐らく「バグダッドの盗賊」で主人公を演じた時のダグラス・フェアバンクスの風貌が混じっているアラジン、以前読んだ英国版の子供向け絵本の中国人のアラジン、原典… は詳細不明なものの恐らくこの様な感じだったろうと想像されたアラブ人風のアラジンの、三人です。
どうやらここでは、あらゆるイメージの入り交じった、あらゆるバージョンの人物たちが存在している様でした。
中には「イマジネーション!」と叫ぶ小柄な桐島カンナ氏や… 何やら奇妙な、ヒーロー物…の様なポーズを決めるサニーさん等、奇妙な印象が取り入れられた華撃団関係者たちもいらっしゃいました。さらには少し雰囲気の違った自分… 恐らくこれまで、別の選択をしてきた、別の自分までもが存在しています。
そしてロビーの中央に設けられた台座の上には、誤解と想像の産物が、ラビアンローズならぬ「アラビアンローズ」が、沙漠の花が、真っ白な沙の上に紅々と咲いていました。
せっかくだから月を見に行こうか、と昴さんに誘われ、二人で屋上に上がっていきます。
ーー夢と虚構、そして性的幻想の領域… つまりは月光に照らされたこのイェソドこそが、想像界への真の入り口… “基礎” という訳だ。
屋上に出ると、そこには美しい満月が浮かんでいました。イメージである為にか、未だ完成してないはずのエンパイアステートビルディングの姿さえあり、月はその後ろで鮮明に、あるいは朧に輝いていました。
ーーそれで… 教えてくれるかい? ロマンスの事を。
この旅路… 奇怪で摩訶不思議な、この精神の旅が始まるきっかけになったその問いを、旅の終わりに必要になると予告されたその問いかけを、昴さんは改めて繰り返されました。
ですが無論、真正面からそう言われても困ります。
しばし思案したのですが… しかし、僕にはある予感がありました。
ならばいっそと、ふと思い立ち、こう言ってみました。
“月が綺麗ですね”
すると昴さんは、成る程、それが? と、しばしクスクスと笑っていました。
ですが… 違います。と答えます。
違います。そうではなくて… つまり、きっかけなんです。僕は今、昴さんと、もう少しだけ仲良くなりたいと思って、勇気を出して、お話するきっかけを作ろうとしたんです、と。
興味深そうに見つめて来る昴さんに対し、更に、こう申し上げました。
今日、ここに来る前、昴さんは僕にふたつの質問をしましたけれど、最初の質問の答えよりも、実はふたつ目の質問の答えの方が、昴さんは喜んでいらっしゃいました、と。
ーーふたつ目の質問…?
そうです。昴さんは “本当に、こんな話に興味があるのかい” と、問われました。そして、それに対して僕が、もちろんです、と言った、その時…
と、昴さんのご表情が、少し固くなりました。心当たりを思い返しているのでしょうか…
しかし、怯まず続けます。
あの時の昴さんは、なんと言いますか、ふと、色が変わったように、感じたんです。その、色というのはつまり、雰囲気が、と言う事なんですけど。…そして、きっとあの瞬間、僕自身の雰囲気も少し変わっていたと思います。つまり、その…
昴さんは押し黙ったまま、お聞きになっています。もう少し! と気を入れ直し、尚も続けます。
つまり… “もしかしたら、この人物になら、話が通じるかもしれない” と、そういう風に思われているような、そういう気配というか、期待を感じたんです。話… というのもそうだし、そうしたら、もしかしたら… 何より、気持ちが通じるかも、という…
そこまで言うと、昴さんはむむと唸り始めました。もしかすると不愉快に思われたかもしれないとも思いましたが、もうやけっぱちだとばかりに、僕は、更に畳み掛けました。
僕にはあの瞬間、まるで昴さんの体温を感じられるかのようにすら、思えたんです。
きっとあの瞬間、昴さんは、ご自身の内側を晒すおつもりになられたんだと思います。だって、こんな… 無意識の世界まで共有するような事は、なかなか出来ませんし… だからこそ僕も、正直になろうと思いましたし、そうしても、きっと、怖くない、と思ったんです。
昴さんは依然沈黙したままです。が、構うものか、と続けます。
今すぐ、もう少しだけ近くに寄って、昴さんに、触れる事が出来れば、とさえ思いました。その… それはつまり… 怖くないですよ、って、その事を、もっと伝えられるかもしれないと思って…!
ひと息にそこまで捲し立てたところで、昴さんが口を開きました。
ーー …分かるよ。その感じは… 良く分かる。
緊張し過ぎたせいか、一気に捲し立てたせいか、僕はいつの間にか、肩で息をしていました。意外にも昴さんは、少しだけ動揺されているように見えました。
ーー僕はいつも… 怖がっていたのか。
昴さんの意外な反応に、僕もまた、たじろぐ事になりました。
ーー僕の話は、大概理解されないからね。相手の反応など気にしていないし、それでいいと、そういうものだと思っていたんだが…
昴さんはこちらに背を向け、月を仰ぎ見ました。
ーー言葉にすれば果実は消え去る… いつでもその本質は何処かへと消え行く。だから、気にしていないというのは事実だ。…だが… そうか… それでも、どこかで…
恐らくその精神の孤独を… 果てしない孤独を省みているのであろう昴さんの後ろ姿はいかにも儚く、まるで昴さんの輪郭だけが全ての景色から剥がされて、闇の中にひとり浮かび上がり、漂っているかのようにさえ見えました。
この人をこのまま、ひとりにしておいてはいけない、と思いました。今すぐ一歩を踏み出し、せめても寄り添う事が出来れば、と思ったその時…
何やら、するりと衣擦れの音がして…
ふと横を見ると、昴さんの事を抱きしめる僕の姿がありました。昴さんも気付いたようで、ふたりして目を点にしながら、恐らくはイメージしたままに現れてしまったのであろう自分たちの幻影の姿を、しばし呆気にとられて見つめることになりました。
ーー …あれが君の願望なのか?
いえ!その、あれは、体が勝手に、いや、頭が勝手に、等と、必死に弁解しようとしましたが、何故か昴さんは愉快そうにカラカラと笑っていらっしゃいました。
ーー仕方ないよ、ここはそういう場所だからね。恥じる事はないさ。で、この後はどうなるんだい?
幻影の自分たちの姿を昴さんが観察しようとし始めましたので、もう行きましょう、と昴さんの手を引き強引にその場から逃げ去りました。
ひとしきり足早に駆けたのち…
ーーいやすまない、からかう気は無かったんだ。その… 嬉しいよ。慰めようとしてくれていたんだろう?
ひとまず幻影が見えなくなるところまで移動すると、昴さんはそう仰ってフォローして下さいました。いえ、その… と口籠っていると、昴さんはこう仰いました。
ーーありがとう。少し分かったよ。…それに今日は、僕ももっと、君のことを知りたいと思った。
またしても真っ直ぐな瞳に見つめられてそんな事を言われたものですから、結局はまた赤面する事になりました。
ーーそれにしても… 成る程、“予感” というのが、それな訳だ。それこそが、ロマンス… つまりは、可能性のきざはし。…事ある毎に時制まで行き来するような思考をしていると、忘れがちなところだね…
どうやらロマンスの… ある面でのひとつの肝を掴んだらしい昴さんは、さらに何事か、上の次元の得心を得たご様子でした。
ーーしかしここは面白いな。君の内面が詳らかになってしまうぞ。そうだな… なあ君、好みのタイプはどんなだい? 男の好みでも女の好みでも、知っておきたいところだが…
聞かれたが最後、モワモワとイメージが周辺に形作られ始めてしまいましたので、もう終わりです!やめてください!と必死に懇願しました。
昴さんは珍しくも今度こそカラカラと大笑し、では、ほら、本当に抱きしめてくれ、と仰いました。
あのそれは… と戸惑っていると、そうではなく、必要だからそうしてくれ、との事でした。
ーー“お家がいちばん” …カカトを鳴らすんだよ。そろそろ帰ろう。だが、少しズルをしてここに来たから、一挙に目覚める事になる。衝撃が大きいから、注意しなければいけない。あ、ほら危ない、落ちそうになっているぞ…
昴さんの手がこちらに伸びて来て、僕の身体に触れた瞬間、ドンと大きな衝撃が奔り…
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気づけば僕は、昴さんに抱きしめられていました。
慌てて離れようとしましたが、動くな、危ない、と言われ、ようやく状況を理解しました。
僕たち二人は、元いた鉄骨の上に帰って来ていました。
茹だる熱帯夜。上空300m。当時建築中であったエンパイアステートビルディングの頂上付近、大きく中空に張り出したその剥き出しの鉄骨の突端に。
昴さんと僕との哲学的問答… そしてそこから始まった精神的旅路は、一旦そこで終了しました。
今夜、最初にこの場で問答をしていたときには、まるで死の化身か神か… という程に、昴さんが何か冷たく超常的な存在であるかのようにさえ思えましたが、そうして触れ合って感じる昴さんの体温は、当たり前ですが暖かく、とても人間的で、あの甘い薫りがするな、とただ、それだけを思っていました。
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今夜は疲れただろうから、少し休んでいくといい。と、そう仰る昴さんのお言葉に甘えて、その後、昴さんのご自宅と化しているミッドタウンのホテルのお部屋に、お邪魔させて頂く事になりました。
お茶を淹れるから少し待ってくれ、と、昴さんは奥からティーセットを取り出し、ダイニングテーブルで手ずからお茶を淹れてくださいました。てっきりそういうのは全てルームサービスで済ましていらっしゃるのかと思っていましたので、意外でしたし、それだけに有り難かったです。
昴さんが急須で淹れて下さったお茶は、何やら中国茶の様でした。ふわりと湯が注がれると、急須の中で茶葉が踊り始めます。そのお茶は、淹れている最中から、まるでお香を焚いたかのような良い薫りがして、もうそれだけで今日一日の疲れがすっかり癒え、消え去ってしまうかのようでした。
間接照明も暖かいデコ様式の美しいお部屋で、とろりと自然な甘みのあるお茶を頂いていると、まるで時間そのものが溶け出して、全身を潤す慈しみのしずくだけがそこに留まるかのようでした。一切の試練はこの世から去ったと正直に思えるような、心から安らげる時間でした。
すごく美味しいです。烏龍茶ですか? と問うと、昴さんは、ああ、その一種だ、と仰り、口に合うかどうかを気にして下さっていました。本当に美味しいです、薫りも良くて云々と、今一度素直な気持ちと感謝の意をお伝えすると、昴さんはただ、それなら良かったと微笑んでくださり、しばし一緒にお茶を頂きながら寛ぎました。
そして実は、興が乗って来たのか、その後奥からあるタロットデッキを持って来た昴さんが、今夜の出来事を踏まえたさらなる魔術的講義の予告をしてくださったんですけれども… それはまた、別のお話ということで。
…そんな訳で、急遽お届けした昴さんとの対話… 対戦… にも等しかったような気もしますが…w それを経ての精神世界への冒険の一端を、しばらくの間シリーズとしてお話しさせて頂きました。
しかし、お話した通り、今にして思えば、これは昴さんによる魔術的修行の、そのほんの入り口に過ぎませんでした。
マルクトからイェソドへと到達した我々が目指すべきは、その先にある更なるセフィラです。この先の修行については、また今度。
それにしても、それだけで人生観が変わってしまうかの、濃密で衝撃的な目眩く体験をした一夜でしたが、一番衝撃的だったのはその後日譚でした。
昴さんに頂いたお茶が大変美味しかったので、後日チャイナタウンに出掛けた際に、木箱に書いてあった銘柄をうろ覚えながらも思い出して、一生懸命探しまして。
ですが… どこにも売ってなかったんです。
『大紅袍』という名前でした。
本当にどこを探しても見つからないもので、仕方なく王大人のお店に行ってお茶のことを尋ねたのですが、何がおかしいのかワハハと大笑した大人は、それはいわゆる伝説の茶葉で、そうそう手に入れられる物ではないという事を教えてくださいました。
…失礼ですよね…w 別に僕が探しててもいいと思いますけど…
しかし詳細を尋ねると、確かに… 少しだけ手が届きませんでしたね。その『大紅袍』は、買おうと思うと、そうですね… 今のお値段だと…
20gで、250万円だったかな…w まあ、あの、プレミア付きの価格ではあるんですが…w
その内タイムマシンが出来たら「烏龍茶ですか?」などと口にしてしまったその時の僕を暗殺しに行こうと思います。
改めて昴さんに感謝したのは言うまでもありません。
いろんな意味で美味しい体験でしたね…w
《九条昴問答・了》