《「太正」 時代という “未来像” -サクラ大戦25周年に寄せて- 》
1996年9月27日。
それから25周年。
という事で、今回は特別に本ブログの通常の体裁を逸し、精神を太正から令和の側に置き、サクラ大戦という作品自体の25周年を、ささやかながら祝そうと思います。
ですが本作との出会いとその思い入れ等、個人的な事を語るとキリが無い為、ここはひとつ、あるいはサクラ大戦のその本質の一端を詳らかにすべく、数多ある同作の魅力の中からただ一点、サクラ大戦がサクラ大戦として特別な存在になっている、その大元の理由のひとつを改めて取り上げて記すことで、記念としようかと思います。
ただその一点というのは、これまであまりファンの間では自覚的には言及されて来なかった部分でもあります。
何か。
それは、サクラ大戦の魅力の根幹には「蒸気革命」という「SF」がある、というその一点です。
一体なぜそんな当たり前のことが言及されづらいのかと言えば、それはやはり、当たり前過ぎるからです。
とは言えそれは、当たり前過ぎて却って盲点となっている… という訳ではなく、「太正」世界に間違いなく生きていた我々からしてみれば、そうしてわざわざ作品の前提に言及することは「メタ認知」に等しい行為である為に、ある種、野暮な事ですらある為です。
しかし同時にそれは、それだけその設定がサクラ大戦においては重要な前提であり、また作品世界の根幹であるからこそ、通常は背景となっているが故にわざわざ言及されない… という訳ですから、逆説的に言えば、それこそがサクラ大戦をサクラ大戦たらしめる核の中の核であり、その本質の一端であると、断言出来る部分でもあるという訳です。
では一体、何がそれほど重要なのでしょうか。
それは「蒸気革命」というSF装置が “あり得たかもしれない、もうひとつの世界” を幻視する為のスペクトルそのもの、に他ならないということです。
ではその “あり得たかもしれない、もうひとつの世界” とは何か。それはサクラ大戦の企画を構想している段階を振り返った、広井王子氏の証言がそのまま物語っています。
曰く『最初は戦後の闇市をやろうとした。戦後民主主義(という美名の元に侵攻してくるグローバリゼーション)との戦いである。日本人が最後に日本の心をかけて戦った、それこそが “サクラ大戦”(意訳)』であると。
つまり広井氏は、サクラ大戦という企画によって “戦後もアメリカ式資本主義に取り込まれる事なく、戦前の文化と精神性とを失わずに済んだ、あるいはあり得たかもしれない、もしもの歴史を辿った日本の姿” を、幻視しようとした訳です。
それは敗戦とその後の米国による統治の末、資本主義の名の下に忘れ去られてしまった日本の価値観を復活させようとする試みでした。しかし…
そこにはある問題がありました。初期構想のままに、そのまま戦後の混沌を描き出す場合、当然、現実に起こった悲劇を前提にする必要がある、という事です。
それは昏く重たい道です。戦後を舞台にしてしまうのでは、明るいエンターテインメントにはなり得ない。そこで、今一度光の方へと跳躍するために必要となったのが、「蒸気革命」というアイディアだったのです。
「蒸気革命」…つまりは、現実の歴史とは少し違った歴史を歩んだ「もしも」の日本の姿。
このひと捻りを世界設定に取り入れ、さらには大正時代に舞台を設定することで、最早現実に起こった大いなる悲劇を前提にする必要がなくなったのです。
つまりは “戦後訪れたアメリカ式価値観との闘争” というテーマの本質はそのままに、しかし舞台をそこから転換する事で、“そもそもアメリカ式価値観に侵略されずにそのまま発展していたならば、もしかしたらこうだったかもしれない日本の姿” へと、幻視する先の世界が変わった訳です。
このひと捻りが、いかに価値のある事か、お分かり頂けるでしょうか。
人間の認知とは複雑なもので、例えそれが創作物であったとしても、実際に目にしたものは、深いショックとともに、身に刻み込んでしまいます。それはつまり、事実の追認、ということでもあり、そういうことも起こり得るという、認識の強化でもある、とも言えます。
そしてまた同時に人間の無意識というものも、素晴らしくも恐ろしいもので、こんなことが起こっては嫌だ、という不安心理こそが、実際の悲劇を呼び込む呼び水になることもある訳です。
無論、だからと言って、見ざる聞かざるで良い訳ではありません。あらゆる悲劇を繰り返さないために警鐘を鳴らし続けることは、必要不可欠なことです。
けれども、それだけでは、やはり足りないのです。絶対的に足りない。それだけでは、限界がある。なぜなら、悲劇のビジョンがあるだけでは、喪失は、喪失のままだからです。
それだけでは、実際に起きた悲劇と喪失は、慰められこそすれ、癒されはしないから、です。
ならば、果たして、どんな手があるというのでしょうか。
その答えこそが「蒸気革命」が起きた「太正」時代、のような発明なのです。それは即ち、世に数多あるジャンルフィクションが本来的に持つ夢想の力、想像の力のことでもあります。
SF、そしてファンタジーの力を使えば、その想像力で、現実に起こった悲劇を飛び越えていけるのです。
サクラ大戦は、ただの歴史ものではありません。もしそうであるならば、大正浪漫と歴史的事実と時代考証のみが魅力であるならば、何もスチームパンクを取り入れたものでなくても、実際の大正時代を舞台にした作品であれば、サクラ大戦ならずとも何でも良いはずです。ですが、そうではない。
例えばサクラ大戦本編のオープニングをアニメーションと共に威風堂々颯爽と飾る、田中公平氏作曲の『メインテーマ』。
その曲調を一聴すれば分かる通り、サクラの “太正” 世界とは、実はレトロ感、懐かしさ、ではなく、むしろ、新時代感、フレッシュさ、それらの方が高らかに宣言され、世界観の色合いとしての肝となっている訳です。
そしてそれは即ち、実は過去を振り返るという視点ではなく “もしかすればあり得たかもしれない、あり得るかもしれない、もうひとつの理想的な世界” の黎明を宣言する、つまりはその世界が向かう未来への可能性を描き出す音色だったのです。
それでは、サクラが描き出す理想的な世界とは、具体的にはどのようなものなのでしょう。
OVA『桜華絢爛』で非常に印象的なシーンがあります。
それは浅草仲見世通りのおいちゃんたちが昼間から縁側で将棋を差しているシーンで、翔鯨丸が緊急出撃する為に、急いで店を畳まねばならなくなる、というくだりです。サンダーバード2号式に仲見世通りの下に格納されている翔鯨丸が出撃する際には、迷惑な事この上ない事に仲見世通りが丸ごと展開する必要があり、しかし彼らも手慣れたものでバタバタと店が畳まれていき、勝負は翔鯨ぇ丸にお預けだ、となり、特に迷惑そうにするでもなく、それどころか楽しそうにがんばれよ〜と翔鯨丸に呑気に手を振る、あの感じ。
戦後多くの日本人は忘れてしまった、あの感じ。
あの空気感に凝縮されている何かを復刻させようと試みているのがサクラ大戦である訳です。
と、こうして舞台設定についての話が続きますと、やや大仰な話であるように思われるかもしれませんが、しかしこれは、サクラ大戦本編が、気の利いた、あるいは馬鹿馬鹿しいユーモアに満ちた、笑いに満ちた作品であるということとも、無関係ではありません。
それどころか、その笑いは真に向日性があるが故のものであるという、つまりは作品の本質そのものだということの証左でもあるのです。
例えば、恐らくですが、多くの人はサクラ大戦の主題歌であるゲキテイこと『檄!帝国華撃団』を初めて耳にした時、恐らくどこか “恥ずかしい” 感覚がしたのではないか、と思います。
心熱く胸躍り血潮が滾る堂々たるメロディーと歌詞でありながら、しかしだからこそ、どこか恥ずかしかった、のはなぜか。
それはサクラ大戦が描く物が、いわゆる王道中の王道である為です。
あるいは無意識の内に態度を斜に構えざるを得なくなるような、厭世観に満ちた深淵ばかりを覗き込む世の創作物の中で、脇目も振らず一直線に一際輝く大いなる正道の祭典。
その直球ど真ん中の、純粋極まるポジティブなメッセージ故に、世に馴染もうとする余り、大人になろうとする余りいつの間にか擦れた概念を吸収しすぎた、現代に生きて来た我々の世界観は、衝撃と共に揺さぶられる訳です。
「もしもこうだったら、この方がいいじゃん」というポジティブなメッセージ。
あるいはあり得るかもしれない未来像としてのサクラ大戦のその力強い価値観は、これからも有効であり続けるはずです。
それも、国内だけでなく、世界に対して。
(…以下、当ブログらしく、この件に関して少しだけ米国事情の側からの話をします。あるいはここで一旦筆を置けば比較的綺麗な祝辞になるのですが、せっかくの機会ですので、もうあと一歩、闇の側に足を踏み入れ、だからこそサクラ大戦の中に潜む価値観は世界に対して有効であり、光をもたらす為に今こそ必要とされるべき作品である、ということの理由を、もう少しだけ提示したいと思います。)
例えば、カレン・アームストロング氏が著書『イスラームの歴史』他で、再三厳しく指摘しているように、多くの人が宗教問題であると誤解している、イスラーム世界とアメリカとの間で今尚続く現代戦もまた、実際には上のサクラ大戦的闘争と全く同様の文脈の上にあると見通す視点こそが、まずは非常に重要です。
つまりその諸問題の全ては、米国式資本主義が標榜し、彼らが世界に対して一方的に押し付けて来た『 “現代” という物質的社会システムそのものへの、異議申し立て』なのです。
では、物質的社会システム=資本主義の弱点とは何なのでしょうか。
…唐突ですが、皆様はマイクマイヤーズ氏主演監督映画『オースティンパワーズ』の主人公オースティンの“歯並びが悪い”というギャグをご存知でしょうか。『オースティンパワーズ』は007のパロディ映画であり、主人公のオースティンは英国人のエージェントです。彼は007流のモテモテセクシーガイを気取っていて実際その通りなのですが、“歯並びだけは無茶苦茶悪い”のです。
何かというと、これは米国人が持つステレオタイプな偏見のひとつである「英国人は歯並びが悪い」というイメージのカリカチュアである訳です。
一体なぜそんなイメージが出来上がったのかというと、元は「英国は我々米国と違って格差があって平等じゃないから、下層階級の人間は歯列矯正が出来なくて歯並びが悪いのだ」という風聞から生まれたものでした。しかしその風聞がひとり歩きした結果、最早その由来の方が忘れ去られ、ただ「英国人は歯並びが悪い」というイメージが広がってしまった訳です。
ここで驚くべきは無論「英国は我々米国と違って格差があって平等じゃないから」という部分です。皆様もよくご承知の通り、米国こそは今経済的格差が深刻に広がっている国です。無論英国は実際に今に至るも厳しい階級差別社会ですが、米国もまた別の形で格差を生んでいます。ですが、建前としては自由と平等を謳っている。
しかし資本主義とは、結局は「資本家」と「労働者」を分けるシステムでもありました。例えば、かつて1920〜30年代の米国では、ロコモーティブに車にと、流線型のデザインがもてはやされ、さらには「快食快便ヨーデルレイヒー」ことスムーズで効率的な健康食「シリアル」が国を挙げて推奨されて来ました。(なぜあんな不健康そうな食べ物が米国では定番なのかと言うと、以上の理由に依ります)
それは取りも直さず、国を “スムーズ” に流線型にし、労働力の効率化、工業化を果たし、国力を物質的に発展させるべく行われた国民運動であった訳です。
しかしそれは、国民(資本家以外)を国というシステムの為の部品にする政策でもありました。
今、まさにアメリカ自身がその『国民を部品にする “現代” という物質的社会システム』の反動に喘いでいます。
経済を回し、物を増やし、人口を増やし、社会が物質的発展をする事を前提としたシステム。
それはつまり、労働者による長時間労働さえもがシステムの一環になった世界です。
資本主義とは詰まるところ、産業革命後の物質レベルに応じて現れた初期の実験的システムであり、決して万能のシステムなどではあり得なかった訳ですが、その点が反省されるには、物質文明の隆盛を極めた80年代を経て尚、ここまでの時間が掛かった。
「ミニマリズム」という運動があります。数年前からその機運が米国内で高まっていますが、これは実は “物を捨てる” という事が目的の運動ではありません。(日本国内においてはこの点が大きく誤解されています)
必死に働いてものを買う、そうすれば経済が回る、そうすれば幸せになれる、という自動思考を、心の本質をないがしろにしたままに作り上げてしまった、資本主義への反省と疑い。溢れかえる物で、長時間労働で、経済で飽和して、深く傷ついてしまった心を救うためのあれは、必死の取り組みである訳です。
そしてそのミニマリズムの文脈の上に、日本国内では「断捨離」と呼ばれている運動を、今米国が学ぼうとさえしています。
国内の断捨離を推進している方々の中には、それをただの部屋の片付けとしか認識していないような向きもあり、断捨離というワードを商標登録したなどという話は、笑い話にもならないお笑い種ではありましたが、例えば代表的なところでは、Netflixで米国向けの番組を持ち「コンマリメソッド」を広く紹介されている近藤麻理恵氏の活動などがあります。
いずれにせよそれは、物質を手放し、不要な労働を手放し、資本主義が本質的に要請する際限ない拡大志向に無意識の内に毒され続けて来た精神を救うべく学ばれている方法のひとつなのです。
しかし一度作り上げられた社会の強制力とは強力なものであり、組織というものもまた同様の性質を持っています。
『最初は人のための組織だったはずが、組織というものは、ほんの少しでも気を抜くと、すぐに組織のために人を使うようになる』とは、これも広井王子氏の言葉であり、鮮烈な指摘です。
増えすぎただけで実際には文化的に何の意味もない、経済を回すためだけの会社組織がごまんと存在しているのに、そのために人々が過酷な労働を強いられており、さらに組織は組織そのものを守るために、人々により薄給で長時間労働を強いるという現況があります。
果たしてそれで良いのでしょうか。良いはずはありません。それでは、そのような物質主義的資本主義に対して、社会主義という極端な形でなく別の道を提示し得る国がもしもあり得たとするのならば、それはどういった国から発されるものでしょうか。
それこそは、日本が培って来た(しかし戦後失った)精神性に他なりません。
…とは言え、ちなみにですが、私自身は常から米国文化と英国文化を愛していますし、今現在の専門は中東文化です。ですので日本という国に対しては、ごく単純かつ素朴な、いわゆるパトリオット的な愛着と深い感謝はあれども、ナショナリズム的な思い入れは一切ありません。ですが、だからこそ、歴史を俯瞰して見つめるのならば、ある精神性を世界に対して提示し得るのは日本であるはずであったと、そう思います。
例えばかつて、成熟した江戸期には、少しの労働で数日間は十分に遊べるだけの額が手に入り、人々が「余暇」を十全に楽しみ、ために知的水準も大きく上がり、文化的に豊かに暮らしていたという状況がありました。
産業革命前の物質レベルに於いてであるとは言え、実際にそれは成り立っていたのですから、長時間労働をしなければ生きていけるだけの食物と金額が手に入らない、という世界は、多くの人々の思い込みと、既得権益の力学によって保持されているだけです。
きちんと大人が芝居を観に行き、昼間から映画を観に行き、友と家族と多くの時間を過ごし、旅をし、本を読み、食を楽しみ、十分に有り余る時間で人生を謳歌する、経済一辺倒型資本主義という形でなくとも、十全に社会は回るという形を世界に示す、それこそが日本の重要な役割であるはずでした。
例えば、杉浦日向子氏が解説されていたように、江戸の職人の美学とは、なるだけじっくりと時間をかける、というものでした。一日で出来る仕事は三日でやるのが良い。七日掛ければより上等であると。簡単なことでも簡単に済ませず、丁寧にじっくりと時間を掛けるのが良いとされたこの姿勢はしかし、今現在の資本主義社会が要請するものとは対極に位置する価値観であると言えます。
翻って広井王子氏の姿勢はと言えば、かつて仲間と共に立ち上げたデザイン会社で子供向けお菓子のおまけ企画を担当する事になった際、西洋ファンタジーをやるからと言って「ならラテン語を勉強するしかない」と、本当にラテン語の勉強から始め、天外魔境の時は日本のルーツを探るとしてゾロアスター教を文脈に持ち込み詳細な全国マップを作り込み、サクラ大戦の時は帝都の全地図を用意し、ひとつひとつの建物を逐一検証し、ここに何があった、どこに何があった、とやっていたら時間をかけ過ぎだと怒られた…
という話はご本人は笑い話としていましたし、実際、この資本主義経済圏で商品として作り上げる技術のあった人々の力を借りねば、例えばサクラ大戦などはとても完成し得たものではなかったでしょうけれども、しかし彼氏は実際に、豊かな知的興趣の世界に遊び、高度な知的水準にあった江戸の街人や職人の精神性を引き継ぎ、伊達や酔狂ではなく、彼らの姿と在り方を真に継承し、その身で体現して来た人物であったのです。
しかしここで真に疑問に思うべきは、そもそも「なぜ経済を回し続けねば途端に立ち行かなくなってしまう社会になっているのか」という、システムの在り方についてです。
富の再生産が容易になったはずの、それこそが革命であったはずの産業革命後の世界において、なぜいつまでも長時間労働が常態化しているのか。増えれば増える程に執着を増し、精神を疲労させるばかりの不要な物質を増やし続けて、一体次はどこに侵攻するつもりなのか。その根本的疑問に、現今の流行病によって初めて本物の経済縮小を経験したアメリカ自身が今一番に喘いでいます。
米国内で長年根強い人気を誇るSFテレビ番組『スター・トレック』は未来世界の話ですが、彼らは現代のアメリカにタイムスリップして来た際、“何と野蛮な”というニュアンスが多分に込められた言い方で、こうリアクションします。
「貨幣経済か…!」と。「格差」や「貧困」といった問題はあくまで社会問題であるのだから解決可能のものであるとして、スター・トレックの未来世界では既にそれらの諸問題が解決されているのでした。
またスター・トレックは同時に他の理想的ビジョンも提示します。未来世界では宇宙人と共に宇宙探索をしているような世の中なのだから、人種差別などは一切無くなっているはずだ、と初代シリーズは60年代に制作されたにも関わらず、白人も有色人種も立場的な差がなく当たり前にフラットに話し合いがなされるという、画期的な価値観が提示されていました。
スター・トレックとは、取りも直さずアメリカの自己批評であり、スター・トレックの人気がある内は、まだギリギリアメリカも大丈夫、という、そういうシリーズであるのです。
未来に対して楽観的でポジティブなビジョンを、それも声高に為される主義主張ではなく、あくまでエンターテインメントの背景として提示する。そういう意味では、サクラ大戦もまたスター・トレック同様のポテンシャルを秘めた作品であると言えます。
帝都花組ほど国際色豊かなグループもそうはありません。広井氏は当初レニを男性であると設定しようとしていました。
サクラ大戦が当初から内包していた「もしもこうだったら、この方がいいじゃん」というポジティブなメッセージのその中には、差別と、格差と、自縄自縛となる拡大志向に喘ぐ米国(が主導する物質主義的資本主義)に対してさえ救いになるような価値観が、既にして含まれていたのです。
ジャンルフィクションの持つ想像の力は、エンターテインメントが示すビジョンは、実際に世界を変え得る可能性があります。
だからこそ、「太正」 時代という “未来像” は、これからも有効であり続けるのです。
サクラ大戦25周年おめでとうございます。そして、これからも。
RBR
※ 本エントリでは解説しきれませんでしたが、ジャンルフィクションのもつ想像力が現実の悲劇を跳躍する可能性については、当方が別で運営していたブログにもそれをテーマにしたエントリがございますので、お気が向きましたらご笑覧下さいませ。
チャドウィック・ボーズマンを讃えて / 映画以上の何かであった『ブラックパンサー』の本質とは - アメコミホリデイ
俳優チャドウィック・ボーズマン氏逝去の報を受け、翌日に勢いで書き殴ったものではありますが、それだけに本音が出ています。語っているのはいちアメコミ映画作品の事ですが、実際には広くジャンルフィクションの可能性について記しています。
※ また本エントリに引用した広井王子氏のインタビューはこちらでご覧頂けます。
①前説 : 『うつくしく、たのしく、おろかなり』広井王子3時間20分ロングインタビュー ~サクラ大戦に息づく、日本の歩みと広井王子の生き方~
※ 追記)つまりはサクラ大戦は決して、いわゆる懐かし系にもオワコンにも、その本質としてなり得ないという事でもあります。ですので、ここまで記せば大意は伝わると思うのですが、個人的には、まさにこれからNetflix等で世界に向けて改めて映像化すべき日本の作品は、サクラ大戦が理想的であると思っています。例えば上に挙げた翔鯨丸出撃シーンの周りの人々の様子、等という暮らしの様子の局所に、実は色濃く横溢するサクラのその本質を、『蒸気革命』というギミックに潜むサクラのその肝を外さない座組で企画する事は困難を極めるでしょうが、しかし現代的で未来派な価値観を、政治的主張としてではなく明るいエンターテインメントとして提示できるポテンシャルを、サクラ大戦という作品は大いに秘めているはずであると、そう思います。