サクラ大戦V妄想回顧録

夢か現か…思い入れ深く『サクラ大戦』をプレイした結果、そこでの体験がリアルなもう一つの人生経験のように感じている…そういう方々が、実はプレイヤーの中には多々いらっしゃるのではないかと思います。サクラとはそんなミラクルが生じた作品であり、わたくしもそのミラクルにあてられた一人。そんなわたくしが、かつて“太正”時代に“経験”した事を記憶が混濁したまま綴ります。今思い出しているのは1928年以降の紐育の記憶。これは新次郎であり、現代の他人であり…という、人格の混ざった記憶それ自身による、混乱した、妄想回顧録です

8.紐育華撃団・星組運用霊子甲冑スター / マッシブなボディが標榜する米国のアイデンティティ / 断捨離という運動の本質

rbr.hatenablog.jp

前回、霊子甲冑のことについてお話しました。その続きとして、今回は我々が運用した霊子甲冑『スター』のことについてお話しようかと思います。

 

そうです、紐育華撃団の主戦力【霊子甲冑スター(starV)FENICS AT-05】です。

 

我々のスターは… まあなんせデカイですよねw 7800馬力の機関を載せてますし、ジェミニのロデオ・スターじゃありませんけど、全機がまさに荒馬、マスタングです…w そもそも大きさが帝都花組さんの光武の、二倍ぐらいありますからね…

 

あのサイズ感は、一応は飛行機能のせいだということにはなっているんですけど… 可変機構もありますしね。だけどもちろん、それだけの理由でああなったわけじゃないと思います。

 

我々世代の角張った、ゴツいスタアの造形には、ひとつにはやはり、トリポリ戦争以降の価値観が大きく影響しているということも、言えると思います。欧州はずっとオスマン帝国の言いなりだったけれども、我々は違うぞ!と。

 

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《USS Enterprise fighting the Tripolitan polacca Tripoli by William Bainbridge Hoff, 1878》

 

トリポリ戦争のことは、特に帝都ではほとんど認識されていないような傾向がありますけれども、米国ではボストンティーパーティー事件と並んで、合衆国独立の象徴となっている、非常に重要な出来事なわけです。

 

細かい説明はとても出来ないので詳細は省きますが… 要はあの当時、地中海の海運は、世界大国として大変な力のあったオスマン帝国の領国(正確には独立採算州として準独立地域という立場のトリポリをはじめとする国々)が支配していたわけです。で、欧州の国々は互いへの牽制もあって、商船を襲わせあったりして、オスマン帝国の支配を追認するような形をとってきたと。

 

が、独立したてのアメリカは、木材が豊富でしたので、とにかく造船に強い国で、艦隊が強い国でした。そこでついにオスマン帝国領の圧迫に対してブチ切れるような形で、戦争を開始したわけです。

 

これこそが独立後初めて、正式な宣戦布告手続きを経た米国初の戦争でした。

 

そして開戦後、米国艦隊は次々とトリポリ側の戦力を打ち破り、ついに戦争に堂々勝利しました。米国初の対外戦争は輝かしい “正義” の勝利で飾られ、その結果として、米国は欧州に対する自国の立場の優位性まで確保したわけです。

 

ちなみにこの時の艦隊戦の強さのイメージは、ずっとネイビーの誇りとなってますね。米国海兵隊が何か特別なものであるという、その価値観の下地には、この堂々たる艦隊のイメージがあると言えます。

 

アメリカ建国時のアイデンティティとは、とりもなおさず「欧州にできなかったことをついに果たした、強い国、アメリカ」というものだったわけです。

 

ただ、その感じを引きずったまま、オリエンタリズム的偏見を拡大するような形で、中東に圧をかけるようなことは絶対にしてはいけないのに… と、長年思い続けてはいるんですが…。

 

ぶっちゃけ、米国の中東に対するイメージは、この頃からあまり変化していないという側面はあります。

 

例えばその後、6…あれ…いつごろだったかな…よくわかんなくなって来ましたけど…ともかくその後、米国でスター・トレックというSFテレビ番組が始まって…。あの番組は、僕たち帝国華撃団と似たような理想を大事にした、とても良い番組だと感心したものですが…。それにしても、やはりそこで活躍する宇宙船は、エンタープライズ号であり、イントレピット号なんですよね。

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それこそがまさに、トリポリ戦争で活躍した名鑑たちであり、強い米国というアイデンティティを確立した、その象徴でもありますから。…で、ありながら、スター・トレックという番組自体は、いかにもな勇ましい正義を振りかざす米国的な思想への、自己批評的とも言える、相対化された眼差しこそが印象的な作品でしたけれども。

 

ともかく、スタアのあのマッシブなボディには、米国のコンプレックスであり、アイデンティティであり…という側面が、大いに反映されてはいると思います。

 

特に米国のポップカルチャーに多く触れられている方はその辺の感覚が理解できると思うのですが、特に中東に対しては、長らくトリポリ戦争時の構図に由来する一面的な見方、そして「力を見せつけるべき他者」感とが、意識的にも、無意識的にも、あるいは強迫観念的にも適用され続け、なかなかアップデートされていないという問題があって…

 

いや…すみません… 少し頭痛がしてきました… ちょっと…記憶が…

 

…だけれども、我々が運用した第五世代スターこそがまさに典型でしたけれども、あえてそのマッシブさへの志向を一度認める、それによって、ある程度コンプレックスを脱することも、出来たんじゃないかと思います。

 

今はスタアがどんどん小型化していってますからね。(日本語表記が、最近またスタアに戻りましたね。個人的にスタア表記の方が雰囲気があると思うし、映画スターとかのスターと混同しないので、こちらの方が好きです)

 

全体的にミニマルな感じで、とてもスマートになっています。で、この傾向って、実はとても切実なもので…

 

最近、米国のミニマリズムに感化される形で、日本でも『断捨離』という運動が流行っていますけれど、正直、日本国内の一部のものは、うわべだけを真似たものだと思います。一部のものは本質をちゃんと掬っていますけれど。

 

ともかく、『ミニマリズム:本当に大切なもの』という米国のドキュメンタリー映画を観ればわかりますが、そもそもあのミニマリズムの試みは、ものを捨てるのが目的ではないし、部屋を片付けるのが目的でもないんですよね。

 

本当はあれは、もっとずっと、とてつもなく真摯な、必死な、文化的試みなんです。必死に働いてものを買う、そうすれば経済が回る、そうすれば幸せになれる、という自動思考を、心の本質をないがしろにしたままに作り上げてしまった、資本主義への反省と疑い。溢れかえる物で、労働で、経済で飽和して、深く傷ついてしまった心を救うための、必死の取り組みなんですよ。   

 

いっとき、物質社会で飽和してしまった米国の、これは反動であり、反省であり、癒しなんだと思います。ようやく自己のアイデンティティを受け入れて、強がる必要を捨てつつあるんだと…そういう風に思います。幾らかの葛藤はありながら。…これはまあ、日本人である僕が、半分外側から見ているからこその視点なのかもしれませんが。

 

…すみません…今回は頭痛がひどいな… ちょっと…別の世界のことを語りすぎましたね…

 

7.ジュール・ヴェルヌと人型蒸気 / 霊子甲冑が着込むモノ

rbr.hatenablog.jp

前々回、人型蒸気の話題に軽く触れた折に、ジュール・ヴェルヌの名前を出しました。

 

けれども、ジュール・ヴェルヌのことを言うなら、彼はフランス人なんだから、アメリカのスタアよりもフランスのエトワールの方が関連は強いんじゃないの?とお思いの方も、一般的には…特に帝都の皆様には多くいらっしゃるような気がしたので、今回はその辺を取り上げて、人型蒸気のデザイン、そして米国におけるモダンデザインのお話しをしようかと思います。

 

…とはいえやはり、写真資料や図面を引っ張り出して、実際のデザインを逐一確認してみると、むしろ確かに、フランスの人型蒸気『エトワール』よりも、アメリカの『スタア』こそ、直接にヴェルヌのデザインの系譜だよな、と素直に思われる方が大半なんじゃないかと、そう思います。

 

ちょっとややこしいんですが、仏国のエトワールにはいくつか型番があって、初期のもの、エトワール Ⅰ とエトワール Ⅱ は、ただ単に米国から輸入したスタアをそのまま流用しているだけだったりするので、まあそれは例外だと思うんですけども。

 

だから問題は…三代目からですね。エトワール Ⅲ こと、あの洗練されたヌーベル・エトワールですね。実質そこで初めて、フランスオリジナルの人型蒸気が登場したわけです。巴里華撃団さんの光武Fにも合流したような…西洋甲冑的でもあり、スポーティでもあるような、非常に洗練された、流麗なフォルムの。エトワールといえばアレ、というイメージは大きいと思いますので、つまりは、エトワールといえば、一般的にはエトワール Ⅲ こと、ヌーベル・エトワールのことを指しているわけなんですけれども…

 

あれを初めに見た米国人の感想としては…正直、かなりのところコンプレックスを刺激されたところは、多少なりあったと思いますねー… あ、本物来ちゃったな…っていう…w まあメカニック派の人たちからちらほら聞いた話から想像するだけではあるんですけど、若干こう…複雑な気持ちが、あったと思いますねー…w 人型蒸気はウチの発明なのに…!っていう…w

 

つまりスタアのデザインは米国の…欧州への憧れがストレートに出た形といいますか。

 

あの辺のデザインの関係性、すなわち米国のスタアと仏国のエトワールのデザインラインの違い、あれはちょうど、アール・ヌーボーとデコの関係性と、同じ調子があるかと思います。

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デコという装飾様式はつまり、欧州のデザイン、そして何よりも文化の洗練感を、当時の美術界のモードな表現も取り入れながら、自分たちのスタイルにフィットする形に、いわゆるモダンにアレンジしようという試みである、とも言えるものです。

 

大分後に『巴里のアメリカ人』という映画が出来たりもしましたけれども、要はアメリカ人はお登りさんな訳ですね。国の歴史が浅いから欧州に文化を学びに行く訳です。文化を作り出すにも自国オリジナルの伝統が無いために、あるいは歴史ある欧州等から色々なものを取り入れながら、新しく作り上げなければならなかった訳です。

 

シヴィル・ウォー時代の初期スタアはもちろん、時期的に全くデコ時代ではないですけれども… それだって元は… ほら、同時期の蒸気船だって、デザインは欧州のものが元ですし。

 

だし、あの頃は人型蒸気といいつつも、まだキャラピラー走行でしたし、実質、人型の上半身がくっついただけの、戦車でしたからね。そのような初期の人型蒸気はまだデザインも様式化されていなかったと思いますが、そこから時代が降り20世紀に入って僕たちの世代になると、もう明確にアール・デコ的な路線が完成していたと思います。

 

対照的に、エトワール…そしてその後継とも言える巴里華撃団さんの光武Fシリーズも含めて良いと思いますが、それらフランスにおける人型蒸気・霊子甲冑のデザインには、未来志向というよりも、むしろ中世への回帰がありました。そこが、米国とのデザインラインとの非常に大きな違いですね。

 

せっかく人型なわけだし、人間が“着込む”ものですから、誇り高き伝統へと連結しようとする気持ちが働いて、そうなるわけです。

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その辺は、日本の光武にも同じような構図と力学が働いていると思います。霊子“甲冑”とまで称されるような物なわけですから、やはり自分たちの“甲冑”文化に根付いたデザインにしたい。そうなれば、搭乗者の指揮を高揚させる効果も見込めるのではないか、というわけです。もちろん運用目的にもよりますけれども。

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そして、それは確かにその通りで…僕自身、霊子甲冑を長年運用していた身としてよく分かるのですが、果たして海の物とも山の物ともつかぬ最新技術の塊を着込むのに際して、この機械はきちんと自国の伝統へと繋がっているのだ、という安心感が得られるという心理的効果は、搭乗者にとってある程度重要であると思います。

 

それに、最新の技術と伝統の融合という発想は、技術開発の動機と情熱を底上げする効果もある…という言い方もありますけれど、まあぶっちゃけ、いかにももっともらしい建前と言いますか、要は、偉い人を説得しやすくなるから予算が降りやすくなるという側面もありますからね…w

 

ですがその点、アメリカはそれこそ近代以降に歴史が開始されていますから、どれだけオリジナルを目指そうとしても…「甲冑」的な伝統は特にないわけです。砲撃戦が主流になって以降の歴史ですからね。

 

そこで自然と目が向いたのが、ジュール・ヴェルヌに始まるSF冒険物というわけです。同時代的な技術を土台として参照しながら、(画期的にも)未来志向のロマンを輝かせたサイエンティフィクションは、まさに近現代の魔法。アメリカという国が未来への道標とするのに、最適な世界だったわけです。海底二万マイルロマンといいますか。

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蒸気船、潜水艦…ロコモーティブにトラクター、そして人型蒸気… スタアはそういった、未来志向のロマンを内包したモダン・メカデザインの文脈の上に、存在しているわけです。

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つまりスタアという人型蒸気は、実は本国フランスの人型蒸気よりも、直接的にヴェルヌ的ロマンを体現した存在である、ということが言えるわけですね。

 

他方、フランスのエトワールや日本の光武、ドイツのアイゼンシリーズなんかは、ちょうど良い半々の塩梅で、伝統技術・文化とSF的ビジョンの融合を果たしていると思いますし、それはそれで、ヴェルヌ的なイメージと伝統の、美しいハイブリッドであるという感触があります。

 

戦士たちは霊子甲冑を着込み、霊子甲冑は自国の伝統を“着込んだ”わけです。

 

そういった視点で眺めると、人型蒸気とその偏発展系である霊子甲冑のデザインという、ごく局所的な文化事象においてさえ、米国の、欧州に対するある意味での「文化コンプレックス」と、それをバネにした「米国独自の文化の発見と発明」が、よく現れているな、と思います。

 

ともあれ、人型蒸気は、大戦時こそ悲しい使われ方をしてしまったわけですけれど… そうですね、李紅蘭博士等は特に、人型蒸気が辿ったその辺りの来歴に、胸を痛めていらっしゃいましたね… ですが、霊子甲冑以降はもう、全く、そういうものでは無くなっていますから。戦争の為の物ではなくなりましたからね。

 

霊子甲冑は、決して戦闘機などではないですから。

 

だからこそ、今、ヴェルヌのイメージをあらためて見つめてみると、やっと人型蒸気が本来の姿を取り戻したな…という風にも、思うわけです。

 

6.SF読み物と虹組のふたり

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前回からの続きです。 

 

星組のみんなの話からは、やや脱線してしまいましたね…w ひとまず話を戻すと…

 

『Amazing Stories』に関しては、星組のみんなは、別段、誰も興味がないみたいでした…w あんまり趣味じゃなかったのかな…。こう…楽屋というか、メイクルームの隅に何となく置いといたりはしたんですけど…誰も手には取りませんでしたね…w

 

まあ、基本的にVOGUE誌やなんかを置いてあるような部屋に、あんなものを持っていってもしょうがなかったんですけど…w 今にして思うと。

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むしろ僕の方がVOGUEを好きになって、今もVOGUEJAPANを読んだりしています。こちらはこちらで思い入れがあるので、その話はまた別の折に。

 

ダイアナさんなんかは読書家ですから、もしかしたら、パルプフィクションの中にも、実は結構好きなものもあるんじゃないかとは思いましたけど…ただ、当時、ああいう粗雑な雑誌は、品の良い大人の読むものではない、というような感じがありましたからね…

 

しかもダイアナさん、一応表向きは、シェイクスピアの戯曲や古典がご趣味の中心でしたし…まあぶっちゃけ…こっそり読んでたりしてても、たぶんオースティンとかかな…っていう…w

 

SF…後々そう呼ばれるようになりましたけど…に興味があったのは、プラムさんと杏里くんの二人だけでしたね。あの二人はすごく好きみたいでした。

 

プラムさんはそもそも数学の天才ですから、科学系の空想物語は、得意中の得意というか…

 

ですし、これは雑誌そのものとは関係ない話なんですけど、たまに話題が流行科学の話になることがあって、数学や、理論物理の話になったりもするんです。

 

すると、僕だと頭がこんがらがっちゃいそうな理屈も出てくるわけです。そんな時はよく、プラムさんが理論を解説してくれました。…で、なぜかいつも、最終的にドーナッツにたとえ始めるんですけど…w いや…えーと…光がどうとか…こう…指を丸めて…まあ、何でドーナッツなのかはよくわかんないんですけど…

 

で、だいたい説明が終わると、いつもちょっと哀れそうな目で見られるんですよね…w ええ、あの、微笑んではいらっしゃるんですけど、半分は哀れんでるような…。まあ確かに、あまりに高度だったり、最新型だったりする理論は、ちょっと理解するのに時間がかかりましたけど…そんな…ねえ…別に哀れむほどのことではないと…何なんでしょうね…w いまだに謎です。

 

で、まあ…杏里くんの方は…正直、怖いもの見たさというか…下世話な興味が100%だったと思います…w 杏里くんはほんと、意外と趣味が下世話なとこがあるような…こんなこと本人が聞いたら絶対怒りますけど…w 本当に怖いものは苦手だったとは思いますけど、ペーパーバックは色々幅広かったですからね。恋愛ものもありますし。でも意外と冒険ものが好きみたいでした。ジョン・カーターとか。

 

あとはまあ…プラムさんが読んでたから…ってとこもあったのかな。杏里くんは、よくプラムさんのあとにくっついてて、仲のいい姉妹みたいな感じでしたから。